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「アルメニア性」とハチャトゥリアン(2):《ヴァイオリン協奏曲》の成立史と演奏史の問題

こんにちは、再び能書きの長い指揮者の三浦です。

前回は、「世界とアルメニア、そしてハチャトゥリアン」をめぐるお話をしました。今回と次回は、もう少しハチャトゥリアンの《ヴァイオリン協奏曲》とその「アルメニア性」に迫ったお話をしてみようと思います。

さて、お話は、指揮者が奏者から「『アルメニア的』って何だろう?」と訊かれたところに戻ります。今度は、ハチャトゥリアンの《ヴァイオリン協奏曲》の成立史、演奏史といった点について、とりわけ初演者ダヴィド・オイストラフとの関係を中心にご説明しましょう。

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 1930年代の10年間、作曲家は音楽院在学中も含め、アルメニアの民族音楽を芸術音楽として昇華することを目的に作曲活動を続けていた。作曲家がこのような目的を持ったのは、前回のエントリにおいて言及した長兄スレン・ハチャトゥリアン(1889-1934)の影響もさることながら、アルメニアの作曲家アレクサンドル・スペンディアリアン(1871-1928)との出会いもまた大きな契機となったであろう。作曲家はモスクワでスペンディアリアンと出会い親交を結び、初の創作《ピアノのための舞曲とソング=ポエム・『アシューグに敬意を表して』》を自らスペンディアリアンに見せ、批評を仰いだ。いわば「アルメニア国民楽派」の中心人物であったスペンディアリアンは、作曲家の作品を非常に評価し、進むべき道を示したと言う。その10年後の1940年、作曲家はヴァイオリンによるヴィルトゥオジティにあふれた協奏曲を作曲しようと企図し、わずか2ヶ月という非常に短い期間で《ヴァイオリン協奏曲 ニ短調》を書き上げた。

 その《ヴァイオリン協奏曲》は、今日ではその献呈者であるヴァイオリニスト、ダヴィド・オイストラフ(1908-1974)との関わりという文脈で語られることが多い。オイストラフと作曲家は1930年代にすでに知己となっていたが、特別に親密な関係を築いていたわけではなかった。1940年、スターラヤ・ルーサの「創造の家」(ソヴィエト連邦には、そのように呼ばれる、芸術家のための保養地があった)にある別荘で、作曲家はヴァイオリン協奏曲の構想を練り、すぐに作品に着手したと言われる。この時期、偶然にも同じくこの地に滞在していたのが、ダヴィド・オイストラフであった。

 オイストラフは、作曲家が《ヴァイオリン協奏曲》を作曲中であると聞き、当然に興味を示し、また気に入り、作曲家に助言を申し出た。作曲家はそれを容れ、ソロパートに関しては、半ば「ハチャトゥリアンとオイストラフの共同作業」と言って過言ではないほどのものとなった。事実、作曲家のオイストラフ宛の手紙や、作曲家の自伝、またのちにインタビューでオイストラフがハチャトゥリアンについて語った内容によっても、それは裏付けられる。しかし、作曲家の自伝とオイストラフへのインタビューでは、微妙な温度差がある。オイストラフはこの作品の作曲に対して、また細かなパッセージや奏法の指定を含めてかなり多くの貢献をしたと自負していたようであるが、作曲家自身はオイストラフが語っていたほどの貢献があったとは認識していなかった節がある。

 以上が、当事者の一次資料からみられる、《ヴァイオリン協奏曲》の成立史のあらましである。次に、この作品の演奏史について触れたい。上述のように、この作品の成立には確かにオイストラフが深く関わっており、また実際に被献呈者もオイストラフであったし、初演ソリストもオイストラフであった。初演は、1940年11月16日、オイストラフの独奏、アレクサンドル・ガウク(1893-1963)の指揮、モスクワ放送交響楽団によって行われた。同時に、ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の《ピアノ五重奏曲》やニコライ・ミャスコフスキー(1881-1950)の《交響曲第21番》も初演が行われている。《ヴァイオリン協奏曲》は非常な絶賛をもって迎えられ、この後オイストラフはソ連各地、そして1955年に日本ではNHK交響楽団と、またロンドンでは作曲家の指揮のもとフィルハーモニア管弦楽団と共に演奏を行っている。

 もちろん、《ヴァイオリン協奏曲》は、オイストラフの「専売特許」ではなかった。ソ連のヴァイオリニストであったレオニード・コーガン(1924-1982)や、あまつさえルーマニアのヴァイオリニストにして作曲家、ジョルジェ・エネスク(1881-1955)も演奏している。にもかかわらず、この作品の作曲に関わり、献呈を受け、また初演を行ったオイストラフの演奏は、作品との関わりの絶大さからか、不動のオーセンティックな演奏として評価されている。現在の世界的なヴァイオリニストたちも、基本的にはオイストラフの演奏スタイルを受け継いでいる。しかし筆者はこの点に関しては大いに疑問をもっている。いくら作品の成立と伝播に貢献したオイストラフと言えども、果たしてそれをもって、オーセンティックな演奏とのレッテルを貼って良いのだろうか? 作曲家は自身の自伝において、オイストラフに感謝し、その演奏をこれ以上なく賞賛している。しかし同時に、たとえばオイストラフの演奏スタイルとは全く対極にある、1946年にルーマニアのブクレシュティ(ブカレスト)で行われたエネスクの演奏(当時すでにエネスクは65歳であった)にもまた作曲家は絶大な評価をしているのである。エネスクは、同年にモスクワでもこの作品を演奏しているが、その際、作曲家はエネスクに宛てて、「あなたの解釈はとても独自なものでありつつも、強い説得力を持っています。今後、多くのヴァイオリニストが、貴方の解釈に従うでしょう」と書いている。

 このことは、オイストラフがこの作品の成立に大きく関わったにもかかわらず、必ずしも作曲家の意に沿った演奏をしていなかった可能性を示唆している。繰り返しになるが、現代のヴァイオリニストがオイストラフの演奏スタイルに倣うことは、果たして本当に作曲家がこの作品にこめたものを忠実に表現することになっているのだろうか? 演奏家を国籍や民族をもって色眼鏡で見ることは決して公平ではないが、先日のエントリにおいて記した、この作品の「アルメニア性」を十全に表現することが自然にできるのは、やはりアルメニア文化の中に育ち、アルメニア音楽に通じているアルメニア人演奏家ではなかろうか。当然だが、何人ものアルメニア人ヴァイオリニストが、これまでにこの作品を演奏している。代表例をあげれば、作品のアルメニア初演(1943年)におけるソリストであったアナイト・ツィツィアン、元ボロディン弦楽四重奏団第1ヴァイオリン奏者であったルーベン・アハロニアン(1947-)、また最近ではアルメニア・フィルハーモニー、指揮者エドゥアルド・トプチャン(1971-)とともに日本公演でソリストを務めたカトリーヌ・マヌーキアン(1981-)らが、やはりこの作品における「アルメニア性」を明瞭に体現した演奏を残している。重ねて言うが、アルメニア人でなければ《ヴァイオリン協奏曲》を弾いてはいけない、というわけでは決してない。しかし、この作品の真髄は、やはり彼らアルメニア人ヴァイオリニスト、アルメニア人指揮者、そしてアルメニアのオーケストラの演奏において発揮されていることには疑いがない。その点において、オイストラフやコーガン、イツァーク・パールマン(1945-)らの演奏は、やはり作曲家が意図した「アルメニア性」の肝をはずしてしまっている部分があろう。

 では、この作品における「アルメニア性」の肝とは何だろう? 次のエントリでは、作曲家が意図した《ヴァイオリン協奏曲》における「アルメニア性」について、具体的に踏み込んでいきたいと思います。

参考文献:

ユゼフォーヴィチ,ヴィクトル(1986)『ハチャトゥリアン その生涯と芸術』(寺原 伸夫・阿蘇 淳・小林 久枝訳)、音楽之友社
Арам Хачатурян: Письма − М.: Композитор. 2005.
Хачатурян А. И.  Статьи и Воспоминания. − М.: Композитор. 1980.
Хубов Г. Н. Арам Хачатурян. М.: Советский Композитор. 1962.

文:三浦領哉
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Концерт Оркестра (Русский)

Концерт Оркестра «Улыбка»


Дата: 20-го Марта 2017 г.
Открытие зала: 13:00
Начало концерта: 13:30
Место: Большой зал, Городский Культурный Центр "Сан-Азалия", г. Вако, префектура Сайтама.

--- Программа ---

М. П. Мусоргский: «Рассвет на Москве-реке», Вступление к 1-му акту оперы «Хованщины» (1874), оркестрованно Н. А. Римским-Корсаковым (1883)
А. И. Хачатурян: Концерт для скрипки с оркестром, ре минор (1940)
С. В. Рахманинов: Вторая Симфония, ми минор, соч.27 (1907)


Исполняет Оркестр «Улыбка»
Солист: Кунито Ниситани (Скрипка)
Дирижер: Рэйя Миура

Стоймость билета: 1500 йен
Места Свободны

Справка и бронь: на сайте "e+"
найдёте здесь !

e+ http://eplus.jp

Электронная почта

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Concert info (English)

Concert of Orchestra "Ulybka"

Date : 2017/3/20
Doors open : 13:00  Start : 13:30

-- Program --

M. P. Mussorgsky: "Dawn on the Moscow river, Introduction to Act I"
from Opera "Khovanshchina" (Edition by N. A. Rimsky-Korsakov) (1874, revised in 1883)
A. I. Khachaturian: Violin Concerto in D minor (1940)
S. V. Rachmaninoff: Symphony No.2 in E minor, Op.27 (1907)

Conductor : Reiya Miura
Violin solo : Kunito Nishitani

Ticket Fee: 1,500 JPY
General seating

Tickets are sold at:
Click here!

e+ http://eplus.jp

E-mail

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「アルメニア性」とハチャトゥリアン(1):アルメニア文化とハチャトゥリアン

 こんにちは、能書きの長い、指揮者の三浦です。

 先日、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲の練習に際して、私が「ハチャトゥリアンはロシアじゃない、アルメニアなんだ、この曲にロシアを差し挟んで(?)はいけない」「アルメニア的にお願いします」と発言しました。すると練習後に、ロシア音楽に詳しい奏者から、「アルメニア的、って何でしょうね?」という質問を受けました。当たり前ですが、一言で言えるものではありません。「日本的って何?」って訊かれても困るのと同じコトですね。

 どのような事物の、どのような側面が「日本的」であるかわかるためには、多くの日本の事物を知らなければいけません。「アルメニアの(特に今回の場合、ハチャトゥリアンの《ヴァイオリン協奏曲》の)どのような側面がアルメニア的であるのか」を知るためには、まずアルメニアってどんな国で、どんな人々が住んでいて、どういう文化を持っているのかを知らなければなりません。

 よくよく考えると、一般的な日本の人々は、ほとんどアルメニアに関する知識は持っていないと思われます。「美人が多い」とか(笑)。音楽愛好家でも、ハチャトゥリアンと、アルフレッド・リードの《アルメニアン・ダンス》くらいしか、イメージがわかないはずです。たいへん迂遠な話で恐縮ですが、すこしアルメニアという国・コーカサスという地域について、そしてコーカサス文化とハチャトゥリアン、についてお話をしましょう。

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 現在の国家としてのアルメニア共和国は、カスピ海と黒海の間、コーカサス地方の内陸国であるが、アルメニアは実はとてつもなく長い歴史を持った国でもある。たとえば西暦301年、世界で最初にキリスト教を国教としたのもアルメニアだし、世界の言語を見渡しても、とりわけ比較言語学的に非常に古い特徴を保っているのもまたアルメニア語である。筆者がアルメニアの首都・エレヴァンへハチャトゥリアンの資料収集に行った際、タクシーの運転手が筆者に「まだロシア人が熊だった頃から、アルメニア人はキリスト教徒だったんだぜ」と言ったのも無理はない。
 そういったわけで、アルメニアは、ロシアの一部でもないし、歴史的にはロシアよりも遥かに、文化的にも経済的にも進んだ国だったのである。確かにアルメニアは地理的には南ロシアよりも南にあり、その文化はロシアよりもむしろトルコやイランの歴史的影響を大きく受けて育まれてきたものだ。しかしその文化は、ペルシアの諸王朝やオスマン帝国のイスラム化政策、ロシアの影響にもかかわらず、頑としてより原始的なキリスト教を守り続けた結果、ハチャトゥリアンの時代、そして現在まで独自のものとして残り続けている。

 19世紀から20世紀の初めの民族復興運動ののち、オスマン帝国とロシア帝国に分割されていたアルメニア、そしてコーカサス地域はついに独立する。ロシアにとって、コーカサス地域は明らかに民族的文化的に異質な地域であった。コーカサスが他国に脅かされず独立することは、彼らの悲願であった。そして彼らの文化こそ、彼らのアイデンティティでもあったのだ。この時代にそういった「コーカサスの民族的芸術の所産」を担ったのが、ハチャトゥリアンたちの一世代、あるいは二世代前の芸術家たちであった。たとえば、アルメニア出身のロシアの画家ホヴァネス・アイヴァズィヤン(イヴァン・アイヴァゾフスキー)(1817-1900)、グルジアの画家ニコ・ピロスマニ(1862-1918)、アゼルバイジャンの作曲家ウゼイル・ハジベヨフ(ガジベコフ)(1885-1948)、グルジアの作曲家ザカリア・パリアシヴィリ(1871-1933)、アルメニアの作曲家アレクサンドル・スペンディアリアン(1871-1928)らが代表例と言えるだろう。

 文学や芸術学、文化人類学の概念として、「オリエンタリズム」というものがある。それはごく単純に言えば、「(特に)西ヨーロッパから見た、『東洋』の『異質』な文化や慣習に対する好奇心、またその裏返しとしての侮蔑」と言えるかも知れない。たとえば19世紀末から20世紀初頭における、西ヨーロッパの日本への眼差し(ジャポニスム)もまた、一種の「オリエンタリズム」の一種であったろう。同様のことが、このコーカサス地域にも言うことができる。コーカサスの場合、直接には西ヨーロッパから見てではなく、ロシアから見ての「オリエンタリズム」であった。音楽で言えば、アレクサンドル・ボロディン(1833-1887)の《中央アジアの草原にて》(1880)やオペラ《イーゴリ公》の《ポーロヴェツ人の踊り》(だったん人の踊り)(1887)、ミハイル・イッポリトフ=イワーノフ(1859-1935)の《コーカサスの風景》(1894)は、そのような意味で「ロシアからコーカサスを見るオリエンタリズム」の例と言える。
 しかし、この「オリエンタリズムの主体」であったロシアもまた、同時に西ヨーロッパから見て「オリエンタリズムの客体」だった。それは、20世紀初頭にセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)のつくった「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」と、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)の《火の鳥》(1910)、《ペトルーシュカ》(1911)が成功したことからも理解できよう。つまり、コーカサスは、西ヨーロッパ→ロシア、ロシア→コーカサス、という「二重のオリエンタリズム」の中にあったのである。

 この「二重のオリエンタリズム」の中から、二つの壁を破って、自らの民族的創作をユニヴァーサルな舞台に載せようと試みたのが、先述の5人(アイヴァゾフスキー、ピロスマニ、ハジベヨフ、パリアシヴィリ、スペンディアリアン)を初めとするコーカサスの芸術家たちであった。とはいえ、彼らが最初からそれを意図していたわけではない。彼らが突破できたのは、あくまで第一の壁、つまり、「ロシア→コーカサス」のオリエンタリズムであった。彼ら5人と言えども、本当の意味で自らの民族的創作を、世界に広く知らしめ、芸術の金字塔とするには至らなかったのである。この状況に対して、コーカサスの民族芸術を、真に世界的なものに押し上げようと試みたのが、作曲家アラム・ハチャトゥリアンの長兄で舞台演出家であった、スレン・ハチャトゥリアン(1889-1934)であった。作曲家の14歳上の長兄スレンはモスクワへ上り、モスクワ大学で勉学を修めたのち、モスクワ芸術座で演出助手として働いていた。ちょうど革命後、文化政策が最も混乱し、ありとあらゆる種類の芸術が、ありとあらゆる方法で出現したこの時期に、「コーカサスの民族芸術を世界のものへ」とスレンは構想したのであった。その最中の1922年、作曲家アラム・ハチャトゥリアンは長兄の後を追ってモスクワへ向かった。作曲家は18歳、未だ正規の音楽教育など一秒たりとも受けたことのない青年であった。

 1917年11月7日(グレゴリオ暦)にロシア十月革命が起きた後、内戦を経て1921年に新経済政策「ネップ」が始動、翌1922年には国家としてのソビエト連邦が成立した。作曲家がモスクワへ上ったのが、まさにこの年であった。内戦が終結し強力な中央主権国家が成立した1920年代のソビエトの文化シーンは、さまざまな前衛芸術が群雄割拠する、どちらに向かうともわからない状況にあった。いわゆる、「ロシア・アヴァンギャルド」の時代である。そのような状況で、「芸術における民族性」をもって「二重のオリエンタリズム」を突破し、世界に出ようと考えたのが、作曲家の兄であるスレン・ハチャトゥリアンであった。作曲家アラム・ハチャトゥリアンの創作も、その延長線上にあると言ってよいだろう。
 ソ連初代教育人民委員(文部科学大臣)アナトーリー・ルナチャルスキー(1875-1933)は、さまざまな前衛芸術の出現によって混乱を来したソビエトの音楽界に収拾をもたらそうとしたが、むしろ彼の自由な発想ゆえにそれは実現せず、ヨシフ・スターリン(1878-1953)による「社会主義リアリズム」宣言によってソビエト音楽の方向性が政治的に決められることとなった。すなわち、「形式において民族的、内容において社会主義的」なものが奨励されるに至ったのである。

 スターリンの文化政策は、もちろん現代の感覚でいえば表現の自由の侵害でしかない。しかし、むしろこの政治的方向性自体は、(少なくともこの当時の)ハチャトゥリアンの創作にとってはプラスの方向に働いたかもしれない。というのも、公的イデオロギーとしての「形式において民族的」という政治的方向性は、アルメニア人というソビエトにおける(相対的)少数民族に出自をもつ作曲家にとって、「その民族的芸術性をもって世界に打って出る」チャンスをもたらすものと言えるからである。

 この後、1936年の「プラウダ批判」によってドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)が攻撃され、芸術に対する統制が厳しさを増すものの、このときまだハチャトゥリアン音楽院を卒業したばかりであった。前後するが、1934年に作曲家は卒業作品《交響曲第1番》を「共和制15周年を記念して」発表、1938年にはカンタータ《スターリンに寄せるポエム・「アシューグの歌」》を発表するなど、作曲家は忠実に「社会主義リアリズム」路線に沿った作品を創作し続けた(このように表現すると、いかにも作曲家が体制に対して従順かつ協力的だったように見えるが、かならずしもそうではない。「幻想魔神ハチャトゥリアン」(© NAXOS JAPAN)の逆襲は、もっと後に始まるのである)。

 これらの作品に次いで1940年に発表されたのが、今回私たちが演奏する《ヴァイオリン協奏曲》である。実際にアルメニアの民族色(正確に言うと100%アルメニアではなく、コーカサスの他民族のものも含む)に満ち、それらをモチーフとして作られている。実際に、「社会主義リアリズム」の条件を完璧に満たす作品ではある。しかし、ここで疑問を持ってほしい。わたしたちはこの作品を、そしてソビエト・ロシアの作品を、いつも「社会主義リアリズム」の色眼鏡を通して見てはいないだろうか? ショスタコーヴィチの《交響曲第5番》をはじめとして、このワードとの関わりが常に取りざたされる作品は数多ある。しかし、ここまで書いてきたとおり、ことハチャトゥリアンの《ヴァイオリン協奏曲》は、もっともっと長い「世界とアルメニア文化の関わり」の歴史の上に成立しているのだ。筆者は、そのことこそがこの作品の最も本質的な部分であると考えている。ショスタコーヴィチ作品をめぐる言説と同じように、そろそろハチャトゥリアン作品にも、この呪縛から解き放たれる時が来て良いのではないだろうか。

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次回は(こんな長い文章を読ませておいてまた次回もあるのかよ?と思われるかもしれませんが)、この《ヴァイオリン協奏曲》の演奏史と、解釈の正統性に関する問題、そしてあらためて、「アルメニア性」に触れたいと思っています。


文: 三浦領哉

(追記:グルジアの作曲家、ザカリア・パリアシヴィリの没年に誤植があったため訂正しました。
 また、後段の「プラウダ批判」の年号に誤りがありましたため訂正いたしました。申し訳ございません。)

ラフマニノフ《交響曲第2番》の真価とは?

こんにちは、「オルケーストル・ウリープカ」指揮者の三浦です。
以前、《交響曲第2番》の譜面をめぐる「音楽文献学的」な歴史について、このブログに投稿しました。


今回は、「音楽文献学的背景」につづき、《交響曲第2番》の真価とはなにか、をめぐるひとつの試論です。

 ラフマニノフの《交響曲第2番》は、その甘美な旋律と構成の妙によって、今では作曲家の作品の中で最も有名なもののひとつであるが、同時に数奇な運命をたどった作品のひとつでもある。1906年から1908年にかけて作曲されたこの交響曲は、大戦間期のヨーロッパで人気を博し、伝説的指揮者にしてヨーロッパ楽壇の帝王、アルトゥール・ニキシュ(1855-1922)のレパートリーでもあった。しかしその後の1917年、ロシア革命の混乱の中で自筆スコアは散逸し、アメリカへ亡命した作曲家自身が保有していた印刷譜と、ソ連に残された印刷譜とが、「別々の音楽的形態を持ったまま、東西世界にそれぞれ残された」のである。作曲家自身はアメリカでこの作品をさまざまな場でさまざまにカットして演奏したため、西側音楽界はこの「西側(の実はカット)版」を当然のように継承していた。しかし1970年ごろに状況は一変する。アンドレ・プレヴィンがソ連公演で指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーから、同曲のカットのない「ソ連版」の存在を教えられたのである。この「ソ連版」は、1960年にソ連の音楽学者グリゴリー・キルコルによって校訂されたもので、初演時に作曲家が書き込んだ総譜に由来している。今回の演奏は、このカット無しの「ソ連・キルコル版」に基づく。

 ここまでは、冒頭に挙げた前回のエントリに詳述したところである。

 ただでさえ「冗長」と見なされ、ロシア革命後の西側世界ではさまざまにカットされて演奏されたこの作品の、よりによって「最も冗長なバージョン」を今回私たちが選んだことには、もうひとつの理由がある。

 それは、「被献呈者」である。先述のニキシュは、当時世界の楽壇の頂点に君臨する指揮者であり、この作品が自分に献呈されると信じていた。しかし実際に献呈を受けたのは、作曲家の師セルゲイ・タネーエフ(1856-1915)だった。ニキシュはこのことを大変不満に思い、この作品の演奏をキャンセルしたと言われている(とはいえ後にこの作品の真価を認め、実際に指揮しているのだが)。献呈を受けたタネーエフは、「ロシアのブラームス」とあだ名され、楽曲の構築性を重んじた作曲家であった。また対位法の権威でもあり、楽式に厳格な作曲の教師であった。《交響曲第2番》が完成し、初演が行われたのは1908年、作曲家が音楽院を卒業した16年後のことである。《前奏曲Op.3-2》(俗称「鐘」)や《ピアノ協奏曲第2番》がもてはやされ、すでにこの時点でラフマニノフの名声は師のそれをはるかに越えていたにもかかわらず、ベルリン・フィル首席指揮者にして帝王・ニキシュをおしのけて、作曲家はその師に作品を献呈したのである。

 作曲家は、この作品の真価をどこに置こうとしたのか。それは、作品の被献呈者から推測するに、甘美な旋律や躍動するリズムよりも、むしろその楽式と対位法、そして構築性なのではないだろうか。ラフマニノフは、被献呈者であり自らの師であるタネーエフに、この作品の何を見てほしかったのか、何を聴いてほしかったのか。その答えは、師タネーエフの専門と、その作曲スタイルから容易に推測されよう。

文:三浦領哉
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