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ラフマニノフ《交響曲第2番》の真価とは?

こんにちは、「オルケーストル・ウリープカ」指揮者の三浦です。
以前、《交響曲第2番》の譜面をめぐる「音楽文献学的」な歴史について、このブログに投稿しました。


今回は、「音楽文献学的背景」につづき、《交響曲第2番》の真価とはなにか、をめぐるひとつの試論です。

 ラフマニノフの《交響曲第2番》は、その甘美な旋律と構成の妙によって、今では作曲家の作品の中で最も有名なもののひとつであるが、同時に数奇な運命をたどった作品のひとつでもある。1906年から1908年にかけて作曲されたこの交響曲は、大戦間期のヨーロッパで人気を博し、伝説的指揮者にしてヨーロッパ楽壇の帝王、アルトゥール・ニキシュ(1855-1922)のレパートリーでもあった。しかしその後の1917年、ロシア革命の混乱の中で自筆スコアは散逸し、アメリカへ亡命した作曲家自身が保有していた印刷譜と、ソ連に残された印刷譜とが、「別々の音楽的形態を持ったまま、東西世界にそれぞれ残された」のである。作曲家自身はアメリカでこの作品をさまざまな場でさまざまにカットして演奏したため、西側音楽界はこの「西側(の実はカット)版」を当然のように継承していた。しかし1970年ごろに状況は一変する。アンドレ・プレヴィンがソ連公演で指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーから、同曲のカットのない「ソ連版」の存在を教えられたのである。この「ソ連版」は、1960年にソ連の音楽学者グリゴリー・キルコルによって校訂されたもので、初演時に作曲家が書き込んだ総譜に由来している。今回の演奏は、このカット無しの「ソ連・キルコル版」に基づく。

 ここまでは、冒頭に挙げた前回のエントリに詳述したところである。

 ただでさえ「冗長」と見なされ、ロシア革命後の西側世界ではさまざまにカットされて演奏されたこの作品の、よりによって「最も冗長なバージョン」を今回私たちが選んだことには、もうひとつの理由がある。

 それは、「被献呈者」である。先述のニキシュは、当時世界の楽壇の頂点に君臨する指揮者であり、この作品が自分に献呈されると信じていた。しかし実際に献呈を受けたのは、作曲家の師セルゲイ・タネーエフ(1856-1915)だった。ニキシュはこのことを大変不満に思い、この作品の演奏をキャンセルしたと言われている(とはいえ後にこの作品の真価を認め、実際に指揮しているのだが)。献呈を受けたタネーエフは、「ロシアのブラームス」とあだ名され、楽曲の構築性を重んじた作曲家であった。また対位法の権威でもあり、楽式に厳格な作曲の教師であった。《交響曲第2番》が完成し、初演が行われたのは1908年、作曲家が音楽院を卒業した16年後のことである。《前奏曲Op.3-2》(俗称「鐘」)や《ピアノ協奏曲第2番》がもてはやされ、すでにこの時点でラフマニノフの名声は師のそれをはるかに越えていたにもかかわらず、ベルリン・フィル首席指揮者にして帝王・ニキシュをおしのけて、作曲家はその師に作品を献呈したのである。

 作曲家は、この作品の真価をどこに置こうとしたのか。それは、作品の被献呈者から推測するに、甘美な旋律や躍動するリズムよりも、むしろその楽式と対位法、そして構築性なのではないだろうか。ラフマニノフは、被献呈者であり自らの師であるタネーエフに、この作品の何を見てほしかったのか、何を聴いてほしかったのか。その答えは、師タネーエフの専門と、その作曲スタイルから容易に推測されよう。

文:三浦領哉
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