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「アルメニア性」とハチャトゥリアン(1):アルメニア文化とハチャトゥリアン

 こんにちは、能書きの長い、指揮者の三浦です。

 先日、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲の練習に際して、私が「ハチャトゥリアンはロシアじゃない、アルメニアなんだ、この曲にロシアを差し挟んで(?)はいけない」「アルメニア的にお願いします」と発言しました。すると練習後に、ロシア音楽に詳しい奏者から、「アルメニア的、って何でしょうね?」という質問を受けました。当たり前ですが、一言で言えるものではありません。「日本的って何?」って訊かれても困るのと同じコトですね。

 どのような事物の、どのような側面が「日本的」であるかわかるためには、多くの日本の事物を知らなければいけません。「アルメニアの(特に今回の場合、ハチャトゥリアンの《ヴァイオリン協奏曲》の)どのような側面がアルメニア的であるのか」を知るためには、まずアルメニアってどんな国で、どんな人々が住んでいて、どういう文化を持っているのかを知らなければなりません。

 よくよく考えると、一般的な日本の人々は、ほとんどアルメニアに関する知識は持っていないと思われます。「美人が多い」とか(笑)。音楽愛好家でも、ハチャトゥリアンと、アルフレッド・リードの《アルメニアン・ダンス》くらいしか、イメージがわかないはずです。たいへん迂遠な話で恐縮ですが、すこしアルメニアという国・コーカサスという地域について、そしてコーカサス文化とハチャトゥリアン、についてお話をしましょう。

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 現在の国家としてのアルメニア共和国は、カスピ海と黒海の間、コーカサス地方の内陸国であるが、アルメニアは実はとてつもなく長い歴史を持った国でもある。たとえば西暦301年、世界で最初にキリスト教を国教としたのもアルメニアだし、世界の言語を見渡しても、とりわけ比較言語学的に非常に古い特徴を保っているのもまたアルメニア語である。筆者がアルメニアの首都・エレヴァンへハチャトゥリアンの資料収集に行った際、タクシーの運転手が筆者に「まだロシア人が熊だった頃から、アルメニア人はキリスト教徒だったんだぜ」と言ったのも無理はない。
 そういったわけで、アルメニアは、ロシアの一部でもないし、歴史的にはロシアよりも遥かに、文化的にも経済的にも進んだ国だったのである。確かにアルメニアは地理的には南ロシアよりも南にあり、その文化はロシアよりもむしろトルコやイランの歴史的影響を大きく受けて育まれてきたものだ。しかしその文化は、ペルシアの諸王朝やオスマン帝国のイスラム化政策、ロシアの影響にもかかわらず、頑としてより原始的なキリスト教を守り続けた結果、ハチャトゥリアンの時代、そして現在まで独自のものとして残り続けている。

 19世紀から20世紀の初めの民族復興運動ののち、オスマン帝国とロシア帝国に分割されていたアルメニア、そしてコーカサス地域はついに独立する。ロシアにとって、コーカサス地域は明らかに民族的文化的に異質な地域であった。コーカサスが他国に脅かされず独立することは、彼らの悲願であった。そして彼らの文化こそ、彼らのアイデンティティでもあったのだ。この時代にそういった「コーカサスの民族的芸術の所産」を担ったのが、ハチャトゥリアンたちの一世代、あるいは二世代前の芸術家たちであった。たとえば、アルメニア出身のロシアの画家ホヴァネス・アイヴァズィヤン(イヴァン・アイヴァゾフスキー)(1817-1900)、グルジアの画家ニコ・ピロスマニ(1862-1918)、アゼルバイジャンの作曲家ウゼイル・ハジベヨフ(ガジベコフ)(1885-1948)、グルジアの作曲家ザカリア・パリアシヴィリ(1871-1933)、アルメニアの作曲家アレクサンドル・スペンディアリアン(1871-1928)らが代表例と言えるだろう。

 文学や芸術学、文化人類学の概念として、「オリエンタリズム」というものがある。それはごく単純に言えば、「(特に)西ヨーロッパから見た、『東洋』の『異質』な文化や慣習に対する好奇心、またその裏返しとしての侮蔑」と言えるかも知れない。たとえば19世紀末から20世紀初頭における、西ヨーロッパの日本への眼差し(ジャポニスム)もまた、一種の「オリエンタリズム」の一種であったろう。同様のことが、このコーカサス地域にも言うことができる。コーカサスの場合、直接には西ヨーロッパから見てではなく、ロシアから見ての「オリエンタリズム」であった。音楽で言えば、アレクサンドル・ボロディン(1833-1887)の《中央アジアの草原にて》(1880)やオペラ《イーゴリ公》の《ポーロヴェツ人の踊り》(だったん人の踊り)(1887)、ミハイル・イッポリトフ=イワーノフ(1859-1935)の《コーカサスの風景》(1894)は、そのような意味で「ロシアからコーカサスを見るオリエンタリズム」の例と言える。
 しかし、この「オリエンタリズムの主体」であったロシアもまた、同時に西ヨーロッパから見て「オリエンタリズムの客体」だった。それは、20世紀初頭にセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)のつくった「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」と、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)の《火の鳥》(1910)、《ペトルーシュカ》(1911)が成功したことからも理解できよう。つまり、コーカサスは、西ヨーロッパ→ロシア、ロシア→コーカサス、という「二重のオリエンタリズム」の中にあったのである。

 この「二重のオリエンタリズム」の中から、二つの壁を破って、自らの民族的創作をユニヴァーサルな舞台に載せようと試みたのが、先述の5人(アイヴァゾフスキー、ピロスマニ、ハジベヨフ、パリアシヴィリ、スペンディアリアン)を初めとするコーカサスの芸術家たちであった。とはいえ、彼らが最初からそれを意図していたわけではない。彼らが突破できたのは、あくまで第一の壁、つまり、「ロシア→コーカサス」のオリエンタリズムであった。彼ら5人と言えども、本当の意味で自らの民族的創作を、世界に広く知らしめ、芸術の金字塔とするには至らなかったのである。この状況に対して、コーカサスの民族芸術を、真に世界的なものに押し上げようと試みたのが、作曲家アラム・ハチャトゥリアンの長兄で舞台演出家であった、スレン・ハチャトゥリアン(1889-1934)であった。作曲家の14歳上の長兄スレンはモスクワへ上り、モスクワ大学で勉学を修めたのち、モスクワ芸術座で演出助手として働いていた。ちょうど革命後、文化政策が最も混乱し、ありとあらゆる種類の芸術が、ありとあらゆる方法で出現したこの時期に、「コーカサスの民族芸術を世界のものへ」とスレンは構想したのであった。その最中の1922年、作曲家アラム・ハチャトゥリアンは長兄の後を追ってモスクワへ向かった。作曲家は18歳、未だ正規の音楽教育など一秒たりとも受けたことのない青年であった。

 1917年11月7日(グレゴリオ暦)にロシア十月革命が起きた後、内戦を経て1921年に新経済政策「ネップ」が始動、翌1922年には国家としてのソビエト連邦が成立した。作曲家がモスクワへ上ったのが、まさにこの年であった。内戦が終結し強力な中央主権国家が成立した1920年代のソビエトの文化シーンは、さまざまな前衛芸術が群雄割拠する、どちらに向かうともわからない状況にあった。いわゆる、「ロシア・アヴァンギャルド」の時代である。そのような状況で、「芸術における民族性」をもって「二重のオリエンタリズム」を突破し、世界に出ようと考えたのが、作曲家の兄であるスレン・ハチャトゥリアンであった。作曲家アラム・ハチャトゥリアンの創作も、その延長線上にあると言ってよいだろう。
 ソ連初代教育人民委員(文部科学大臣)アナトーリー・ルナチャルスキー(1875-1933)は、さまざまな前衛芸術の出現によって混乱を来したソビエトの音楽界に収拾をもたらそうとしたが、むしろ彼の自由な発想ゆえにそれは実現せず、ヨシフ・スターリン(1878-1953)による「社会主義リアリズム」宣言によってソビエト音楽の方向性が政治的に決められることとなった。すなわち、「形式において民族的、内容において社会主義的」なものが奨励されるに至ったのである。

 スターリンの文化政策は、もちろん現代の感覚でいえば表現の自由の侵害でしかない。しかし、むしろこの政治的方向性自体は、(少なくともこの当時の)ハチャトゥリアンの創作にとってはプラスの方向に働いたかもしれない。というのも、公的イデオロギーとしての「形式において民族的」という政治的方向性は、アルメニア人というソビエトにおける(相対的)少数民族に出自をもつ作曲家にとって、「その民族的芸術性をもって世界に打って出る」チャンスをもたらすものと言えるからである。

 この後、1936年の「プラウダ批判」によってドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)が攻撃され、芸術に対する統制が厳しさを増すものの、このときまだハチャトゥリアン音楽院を卒業したばかりであった。前後するが、1934年に作曲家は卒業作品《交響曲第1番》を「共和制15周年を記念して」発表、1938年にはカンタータ《スターリンに寄せるポエム・「アシューグの歌」》を発表するなど、作曲家は忠実に「社会主義リアリズム」路線に沿った作品を創作し続けた(このように表現すると、いかにも作曲家が体制に対して従順かつ協力的だったように見えるが、かならずしもそうではない。「幻想魔神ハチャトゥリアン」(© NAXOS JAPAN)の逆襲は、もっと後に始まるのである)。

 これらの作品に次いで1940年に発表されたのが、今回私たちが演奏する《ヴァイオリン協奏曲》である。実際にアルメニアの民族色(正確に言うと100%アルメニアではなく、コーカサスの他民族のものも含む)に満ち、それらをモチーフとして作られている。実際に、「社会主義リアリズム」の条件を完璧に満たす作品ではある。しかし、ここで疑問を持ってほしい。わたしたちはこの作品を、そしてソビエト・ロシアの作品を、いつも「社会主義リアリズム」の色眼鏡を通して見てはいないだろうか? ショスタコーヴィチの《交響曲第5番》をはじめとして、このワードとの関わりが常に取りざたされる作品は数多ある。しかし、ここまで書いてきたとおり、ことハチャトゥリアンの《ヴァイオリン協奏曲》は、もっともっと長い「世界とアルメニア文化の関わり」の歴史の上に成立しているのだ。筆者は、そのことこそがこの作品の最も本質的な部分であると考えている。ショスタコーヴィチ作品をめぐる言説と同じように、そろそろハチャトゥリアン作品にも、この呪縛から解き放たれる時が来て良いのではないだろうか。

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次回は(こんな長い文章を読ませておいてまた次回もあるのかよ?と思われるかもしれませんが)、この《ヴァイオリン協奏曲》の演奏史と、解釈の正統性に関する問題、そしてあらためて、「アルメニア性」に触れたいと思っています。


文: 三浦領哉

(追記:グルジアの作曲家、ザカリア・パリアシヴィリの没年に誤植があったため訂正しました。
 また、後段の「プラウダ批判」の年号に誤りがありましたため訂正いたしました。申し訳ございません。)
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